クラシック作曲家の趣味
朝、晴れた日には川沿いを散歩するのが常となっている。運動不足はもちろんだけれど、仕事の増加に伴うストレスが顕著なので、それを少しでも抑えるため。日光を浴びて散歩するのはうつ病予防、治療に効果的、という話を聞いたから。
思えば作曲家で散歩を趣味(日常の行動)としていた人は多かった。
よく聞く例はベートーヴェン。「ベートーヴェンの小路」という通りが今も残っているように、休憩時間にウィーンの森を散歩していた。交響曲第6番「田園」のような名曲が生まれたのも頷ける。
ブラームスもその一人。毎朝早起きして1時間散歩することを日課にしていたそう。
マーラーの散歩時間はとても長かった。避暑地にいたマーラーは昼食後3〜4時間妻のアルマを伴ってヴェルター湖畔(オーストリア)を散歩していた。ただこの散歩は作曲の構想に思いを巡らせる時間でもあり、時折うかんだ曲案をメモしていたそう。
そのほかにもチャイコフスキーなど、散歩を習慣とする作曲家は多かった。リラックスして適度な運動で脳を活性化し、着想を得るためにも絶好の習慣と言えたのではないだろうか。
作曲家ももちろん、作曲以外何もしないという人ばかりではない。色々な趣味を持っていた。
アメリカの現代音楽作曲家、ジョン・ケージはキノコ収集を趣味としていた。なんでも辞書で音楽(music)の前の単語がキノコ(mushroom)だったから、という話が伝わっているが、本当かどうかはわからない。道端で生えているキノコを収集し、食べたところ中毒をおこしかけた、という笑えないエピソードも残っている。
旧ソビエトの作曲家、ドミトリー・ショスタコーヴィチはサッカー観戦が大の趣味。観戦をするのはもちろん、試合の動向、スコア、得失点差を事細かに分析したそうだ。サッカーに関しての友人との膨大な手紙のやりとりも残っているそう。あそこまで巧妙な作品を作り上げたショスタコーヴィチによるサッカーの分析を聞く機会があれば、是非聞いてみたかったものだ。
チェコ出身の作曲家、ドヴォルザークの鉄道オタクぶりは有名。列車が時刻表通りに動いているか弟子(作曲家のヨゼフ・スーク)に確認に行かせたり、真偽は定かではありませんが、自作に鉄道のモチーフを盛り込んだとも言われています(新世界交響曲の第四楽章のあるモチーフがそうだとか・・・)
作曲家の趣味だけで一冊の本がだせそう。意外な横顔をのぞくことができますね。
【野球ネタ】6番バッターは最強なのか!?
応援する日本ハムはビックボス新庄の話題で、シーズンオフも持ちきりだ。
こんなに発信力があり、一語一語人を惹きつける監督も今までいなかったのではないか。
(ある意味落合監督と外向きには正反対の印象だ)
立て続けに自分の考えを打ち出しているが、先日は「4番バッター」より「6番バッター」を重要視する、という考えを打ち出した。
【日本ハム】サニブラウンに勝った男・五十幡亮汰が来季4番候補に浮上 俊足4番最強6番が新庄式(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース
4番バッターは足の速い選手で、6番バッターに一番得点能力(長打率、OPSか)を置くのが良いのでは、という考え。その理論に基づくとデータだけで見ると、日本ハムの4番の候補は五十幡、浅間、西川(残留すれば)、6番は近藤、王、万波、高濱、野村あたりか。
各球団の6番バッターの顔ぶれはどうだろう。それぞれの球団での6番バッターの成績を調べてみた。(全シーズンの6番バッターではなく、オリンピック明けの8月13日に6番を打っていた選手の成績を掲載しています。時間があれば全日程調べます。)
ヤクルト 中村悠平 打率:279 打点36 長打率:360 OPS:718
阪神 ロハスJr 打率:217 打点:21 長打率:381 OPS:663
巨人 北村拓巳 打率:250 打点:11 長打率:413 OPS:730
広島 林晃汰 打率:266 打点:40 長打率:391 OPS:693
中日 木下拓哉 打率:270 打点:43 長打率:412 OPS:748
DeNA ソト 打率:234 打点:62 長打率:437 OPS:738
オリックス 安達了一 打率:259 打点:18 長打率:302 OPS:653
ロッテ 角中勝也 打率:244 打点:29 長打率:320 OPS:663
楽天 茂木栄五郎 打率:259 打点:53 長打率:427 OPS:770
ソフトバンク 中村晃 打率:245 打点:56 長打率:348 OPS:692
日本ハム 渡辺 涼 打率:242 打点:29 長打率:320 OPS:647
西武 山川穂高 打率:232 打点:66 長打率:469 OPS:791
全日程の平均選手ではないので、はっきりとしたことは言えないが、両リーグとも最下位のチームの6番バッターの打点がリーグの中でも一番多い、というのはとても興味深い結果。
ちなみに優勝した2チームの日本シリーズでの6番バッターはオリックスがモヤ、ヤクルトは変わらず中村悠平だった。
このデータで言えることは、確かに長打率の高いバッターを6番に置けば得点を稼ぐことはできる、ということかな。
後日もう少し深掘りします。
思考をうながす作品は、変化するきっかけとなる
先日、SmartNewsの記事で取り上げられていたので、久々に「機動警察パトレイバー the Movie2」を見た。
「パトレイバー」シリーズを良く知っている人は、おそらくいま30代〜50代だろう。
作業用ロボット「レイバー」の犯罪抑止のために設立された警視庁特車2課「パトレイバー」隊を描いたアニメ、漫画で、ロボットものと思いきや派手な戦闘シーンなどはあまりなく、それよりは企業の思惑や、テロなど社会的問題を描いた作品といえる。
本編が終わったあともいくつか劇場版が作られたが、この作品は劇場版の2作目。
あらすじは自衛隊でレイバーによる軍事運用を目指したが、組織の壁に阻まれうまく行かず、部下を多数戦死させてしまった柘植行人が、日本で大規模なテロを画策する。それを阻もうとする特車二課の南雲、後藤両隊長とのドラマだ。
この作品が作られたのは1993年。この2年後に地下鉄サリン事件という未曾有のテロが東京で発生している。首都東京のテロに対する弱さ、組織の脆さ、そして警察と自衛隊の日本における不安定な位置付けを描いており、その先見性に唸らされるものがあった。正直、小学生の時に見たが、当時は面白い、と思ったが内容について考えさせられるほど自分の頭が追いついていなかったと思う。
今コロナで、日本の対応能力の欠点、が炙り出されている。組織を優先するあまり、優秀な個人が埋没してしまう。例外を認めず、突出した場合は下に合わせるような圧力が働く日本型組織の悪いところが表出している。
表出しているということ、これを機に改善していけば良い。思うに、他人への寛容さが足りなく、自己責任を取ることができない状況(責任の曖昧さ)が閉塞感の元凶の一つではないかと感じている。
考えさせられる作品というのは、芸術だな、とこのような映画を見て思う。20年経っても色褪せないのだから。
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WOWOWのドラマから思う、今後の動画視聴の行く末
地下ごろWOWOWのドラマにハマっている。
地上波のドラマを見ていなかったわけではない。ご多聞にもれず、「半沢直樹」は2シリーズとも見たし、岡田くん主演の「白い巨塔」も全て録画してちゃんとみた。
Amazon Prime Videoで配信されていた「沈まぬ太陽」(上川隆也主演)が最初だったと思う。
3時間の映画に凝縮されたこともある本作を、1話50分、全20話!で描きろうとするのだから、大変な長編作だった。
最初淡々と続くドラマに少し物足りなさを感じたが、見続けると丁寧なドラマ、演技、そして原作を無理に改変しない脚本に好感を覚え、引き込まれていった。
そこではたと気づいた。普段見慣れていた地上波ドラマがいかに大袈裟で、耳目をひくように作られていた、ということを。
時に過剰ではないかと思う演技(あれはあれで一種の芸みたいなもので良いが)。CMを意識したストーリー展開(CMを挟んで物語を進行させるようにうまくつくってある)、そして原作では穏やかだった部分の、劇的な展開への改作。
これはどれもテレビ上では当たり前のこと。なぜなら不特定大多数の一般視聴者を引き込むにはある種の「仕掛け」が必要だから。そして視聴率の上昇はそのまま広告の価値UPに転化され、テレビを続ける上での重要な収入源になる。
しかし、コロナでのデジタル化の進展、スマートフォンの高機能化に伴うNetflixやU-NEXTといった有料動画配信は時代のニーズとも合わさり、着実に登録者数を増やしていった。みな、それが見たいからお金をはらう。製作者側はその時々、瞬間の視聴者を捕まえるのではなく、良いと思った作品を作り続けることで、視聴者の支持を得る。好循環を産んでいるとは言えないだろうか。
仕事や子育てに追われる自分にとって、好きな時間に見ることができる有料配信はとてもありがたい。スキマ時間に一時喧騒を忘れて別世界に没頭することができる。テレビでは今は難しい。
今後のテレビとインターネット、そして動画コンテンツのあり方について考えさせられる事例となった。
TBSテレビドラマ「新しい王様」
https://www.paravi.jp/static/atarashiiosama/
テレビ業界の裏側を赤裸々に描き、それに辟易とする主人公(藤原竜也)が訴えるのは「テレビとインターネットの融合」。現実世界では見逃し配信が開始されているが、このさきどうなるか・・・。
NHK復調気配…主要テレビ局の複数年にわたる視聴率推移(2021年11月公開版)(不破雷蔵) - 個人 - Yahoo!ニュース
テレビ視聴率推移がまとめられたサイト。2020年上期は巣篭もり需要で増加したが、長期間で見ると下がっている。ここからどう巻き返すか。
広告費の推移表。メディア4媒体(テレビ、新聞、雑誌、ラジオ)は毎年微減。インターネットが急進しトップに。数年前にインターネット広告がいずれテレビを抜く日も来るかなあ、と思っていたら、あっという間に抜いてしまった。フェイスブックが手がける「メタバース」が実現すれば、ますますこの勢いは止まらなくなる。
歳を経て変わる印象
カラヤンの音楽を、毛嫌いしていた時期がある。
色々理由があるだろうが、一番の理由は、若者特有の「みんな(特に年長者)が良いとしているものへの反発」だったのではないかと、それから25年経って今思う。
なぜなら、今聴いてみてはっとする。だってとっても良い音楽だから。
軸がしっかりとして轟々となるオーケストラ、フレージング豊かではっきりとわかりやすい音楽、それでいて飽きない魅力。
当時カラヤンの対抗馬(とよく言われていた)のバーンスタインを良く聴いていたが、今はあまり心に響かない。逆に音楽の荒さが目立って聴こえてしまう。
40代を迎えた自分の感覚は、50代、60代になるとまた変わってくるだろう。その時にはやはりバーンスタインがいい、いやまだカラヤンだ。はたまたどちらも面白くない、という感想を抱くかもしれない。でもそれで良い。
一番最初にあげたカラヤンの例は、単に音楽と真正面に捉えていない例で、少し違う例だが、人間の感覚は歳を経るにつれて代わり、捉え方も変わる。その時々で自分にとって合う音楽、合わない音楽があるはずだ。
高校生、大学生の時には対して面白く聞こえなかったシューマン、シューベルト、メンデルスゾーンの作品の色彩の綾が今はとても面白く感じるし、今でもまだワーグナーやブルックナーの音楽は、素晴らしいと思う反面深い感覚ではシンクロできていない。
仕事をし始めた時に出会ったヤルヴィ&ドイツカンマーフィルの印象は鮮烈だったし、アーノンクール、ノリントンらによるHIP(Historically Informed Performance)が一時代を席巻したが、今やそれらの演奏を取り入れるのは当たり前。ヴィブラートをかける、かけないとよく議論があったが、それは音楽的にどうするか、どうしたいかという表現の手段でしかない。その点今の演奏家はうまく演奏に結びつけているのではないか、と思う。
未来の自分はこんな過去の自分の感想をどう思うだろうか。大して変わってないよ、なのか。それとももうそんな音楽聴かないよ、だったりして。
そんな毛嫌いしていた自分でも、なぜかブラームスのドイツレクイエムはカラヤンだった。「ドイツの指揮者、オーケストラで聴かないと」と思っていたのだろうか。そういえばブラームスの交響曲全集も良くカラヤンを聴いていたっけ。
芸術を深読みする楽しみ
この本を読んで感じたことは、芸術の奥深さと、それを掘り進んでいく喜びだ。
奥深い音楽はもちろん一筋縄ではいかない。少し見てみるととても無愛想で、時に不快で楽しいことばかりではない。
そもそも楽しい、という感情はそんなに簡単に得られるものではない。楽しいことをしよう!とビジネス書は喧伝するが、多くの人は心から楽しむことが見つかられない、出会わいから悩んでいるのだ。
筆者は東欧音楽の中心とした、音楽学者だ。音楽学、というと何をやっているのか?と訝しる方も多いかもしれないが、音楽というものを作品的、文化的、歴史的にとらえる学問だ。日本では歴史の浅い学問だが、欧米では18〜19世紀頃から成立した学問である。
このエッセイでは、筆者が見聞きし、直接訪れた場所で感じたこと、思考したことが書き連ねられている。芸術に答えはない。どう考えたかは個人の自由である。しかし、この筆者が考えたことはとても興味深いものばかりだ。
トーマス・アデスのオペラを日常生活とリンクさせたり、オーストリア・ハンガリー国境のドライブで「パン・ヨーロッパ・ピクニック」の場所で想いを馳せ、「レヒネットの虐殺」を感じる(この章の「越えられない国境/未完の防衛戦」が本書のサブタイトルだ。一方で、宇多田ヒカルと藤圭子の出自から彼らの音楽性を論じたり、ウラジオストクの街並みからロシア音楽を考察する。思考の範囲がとてつもなく広く、恥ずかしながら知らないことばかりで知的で想像力を刺激する。
芸術は、やはり普通の状態ではなかなか生まれない。違う文化が衝突したり、何か尋常ではない他人の思考であったり、「普通ではない」ことから生まれるのだ。
そう思えばヨーロッパは異文化が入り乱れており、特にバルカン半島は民族の宝庫だ。戦争さえなければ豊かな文化、芸術は花びらいたのではないか、と考えてみたりもする。
いつもと違う思考というのは、絶えず、違う視点との衝突でもたらされる。
自分勝手では新しいものは生まれないのだ。
天才性と人間性の絶妙なバランス
モーツァルトの音楽はなぜこんなにも色褪せないのか・・・
音楽を聴くことについて、その時々の自分の好み、トレンドがあることに気づく。ブラームスは学生自体文字通り貪るようにCDを漁って聴いたが、一方で武満の音楽は肌に合わなかった。20年たった今、ブラームスの交響曲は食傷気味に感じるいっぽうで、室内楽作品は面白く、武満はユニークな音の感触、陰影に見せられている。もちろん、新しい演奏、解釈により作品の新たな顔を見せ、それに魅せられることもあるだろう(実際ベートーヴェンは、ピリオド・アプローチの普遍化に伴い30年前と今では違う作品ではないかというぐらい演奏が違う)
しかし、自分の中でモーツァルトは違った。
ピリオド・アプローチであろうがなかろうが、イッセルシュタットであろうがノリントンであろうがどんな演奏であろうが、モーツァルトはモーツァルトで、常に魅力的だった。
なぜ、モーツァルトの音楽はいつも楽しいのか。そして、なぜいつも新鮮な印象を持って語りかけてくるのか。
その答えを見つけるために、さまざまな本を読んで自問自答している。
今日はこれ「モーツァルト よみがえる天才3」(岡田暁生著 ちくまプリマー文庫)
この本は「天才ではあるが、自分達と同じ人間であるモーツァルト」を描き出そうという試みをしている。父との確執、恋愛感、死生感、「美」への冷めた目をもつモーツァルトの見方について語られ、モーツァルトがどのような人物であったかが論じられる。
一番興味を持ったのは、モーツァルトの音楽の変わり身の早さへの言及について。モーツァルトの音楽は悲しい曲調が急に明るくなったり、そして暗くなったり・・・心の襞ををくすぐるように移り変わる特徴がある(ハイドンやベートーヴェンはこうはいかない)。この点をモーツァルトの手紙の中身から類推する件はとても興味深かった。
著者はモーツァルトは天才ではあるが、同時に人間でもあるととく。この「天才性と人間性の絶妙なバランス」が生み出した作品が、いつも人の心を打つのは決して偶然ではないだろう。
何ごともバランスが大事なのだ。天才すぎると人がついてこないし、人間的すぎると凡庸すぎる。その絶妙な際に立ったのがモーツァルトだったのだ。